School of Dog?

イヌが読書やら雑談やら。

大岡昇平『野火』に学ぶ「地獄で見つめる動物と人間の境界」

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

 

f:id:school_of_dog:20151105224439j:plainただいま、ゴールデンウィーク前半戦最終日のお昼である。

 ボクは家で、鶏汁ができあがるのを待っている間にこの記事を書いている。

 鶏汁というのは、豚汁の肉を鶏もも肉に変えた節約料理だ。

 

 肉を使った料理をこれから食べようというのに、「人肉食」を題材とした『野火』の感想記事を書こうとは。

 なんだか、お昼ご飯が食べづらくなるではないか。ボクはアホなのだろうか。

 そう思いつつも、休みの日を使って溜まっているものをガーっと書きたいから仕方がない。

 

 「人肉食」という言葉には、怪しい魅力がある。怖いもの見たさというか……。

 ボクはグロテスクなものは苦手で、マンガなり映画なりでそういうシーンを見ると脳裏に焼き付いてしばらく離れなくなるタチなんだけど、それでも。

 だから、『野火』という作品のあらすじのみをちらりと覗けば、「人肉食」という言葉に引きつけられすぎる。

 

 でも、実際に読んでみて、あらすじだけでは分からない作品の本質というものが見えた。

 『野火』を「人肉食をせざるを得なかった悲惨な戦場の物語」という視点からのみ読むのはあまりにももったいない。

 

 「地獄のような戦場」は、この作品の目的ではなく手段だった。

 語弊を恐れずいえば、人肉食も、戦場も、主人公である「私」と、日々会社と家との往復をする生活に埋没しているボクに何かを考えさせてくれる「舞台装置」でしかないということだ。

 

 戦場での哲学。

 これが本書のメインとなっているからか、グロさが尾を引かない。

 

 客観的に生じている凄惨な出来事に対して、主人公である「私」の思考は研ぎ澄まされている。続々と思考を諦め動物として生きる兵士たちが出る中で、「私」は自分との戦争をやめない。読者は、その思考に引き込まれていく。

 菅野昭正『小説家 大岡昇平』によれば、『野火』は戦場から無事に帰還した「私」が回想する「手記」の形式を取っているから、間に語り手としての第三者を挟まずに「私」の思考を追体験できる。そこに構成の妙があり、本書が戦場の悲惨さを伝えるだけの本に終わっていない理由があるという。

 だから、映像化は非常に難しい作品のような気がする。どうしても、グロさや凄惨さの方が際立ってしまいそうで。映画は観ていないので何とも言えませんが……。

小説家 大岡昇平 (単行本)

小説家 大岡昇平 (単行本)

 

 

f:id:school_of_dog:20151105224439j:plainさて、『野火』から何を学ぶかということですが、着目点がありすぎる。かつ、ひとつひとつが深すぎる。

 深掘りのヒントが欲しくて『野火』の解釈をしている本をいくつか読んでみましたが、今度は深すぎた。ボクは公園の砂場に穴をあけたいだけなのに、プロの解釈はブラジルへと続くトンネルを掘っているようだった。

 

 だから、いっそのことそういう本に頼らず、自分が考えたことを書いてみることにした。

 この作品を通してボクが考えたのは、次のようなことである。

 先に言っておくと、問いだけが山積みになって、答えは出ていない。

 

 人間は、色々な欲求を持って生きている。マズローによれば、低次のものでは「食べたい、飲みたい」からはじまり、「認められたい」とか、「自己実現をしたい」と高次のものになっていく。

 

 だけど、ボクたちはそうした「~たい」をすべて力づくで実現しようとはしない。

 それはなぜなんだろう?

 

 法律があるから?

 道徳があるから?

 ルール違反をすることで、社会から阻害されるから?

 良心の呵責があるから?

 

 いずれにしても、今の日本にいる限りは、自分の欲求に相当の抑制をかけて生きることになる。

 だけど、法律、道徳、他者とのつながり、こうしたものがすべて取っ払われれば、人間は自分の欲望をすべて満たそうとするのだろうか?

 仮に、誰も見ていなくて、その行為を行っても法律で罰されないとして、人間は「究極のエゴイスト」になることはできるのだろうか?

 

 主人公の「私」は飢えの限界に瀕し、自分が生きるために他者(の死体)を食べてもいいものかと葛藤し続けた。

 物語の中盤で、自分が死んだら食べてもいいよと「私」に言う狂人も出てきた。

 この狂人は死んだ。本人の許可も受けた。

 けれども、「私」は食べなかった(食べようとした右手を左手がつかんで食べられなかった)。

 

 えーと……なんでなんだろう……。

 

 キリスト教の「最後の審判」を恐れた?

 でも、村の教会での行動を見ると違いそうだしなぁ。

 

 心の中の「野火」、つまり自分の中にある他者の存在がストップをかけた?

 でも、それって餓死の回避よりも大切なことなのかなぁ。

 

 動物は共食いをすることがある。

 「私」は、人間に固有のあらゆる社会的な制度が取り払われている世界でも、それをしなかった。

 

 人間と動物って、どこが違うのだろうか。

 何が「私」に、生きるためには人肉食をもいとわない究極のエゴイストになることを思いとどまらせたのだろうか。

 

 当然、すべての人間が「私」のように振る舞うわけではない。

 自分の生理的欲求を満たすため、永松と安田は人間を食べた。

 

 最後、永松が安田を殺し、食べられるように切り分けるシーンで、桜色の肉を前に「私」が嘔吐したのは、そのシーンがグロテスクだったからではないだろう。だって、ヒルを食べて、雑草を食べて、さらには腐敗して膨らんだ死体を見まくってきた男だし。

 そうではなくて、自身の中での葛藤や思考が限界に至ったからなのかなぁ。

 

 自分がもしそういう場面に直面したら、どうするのだろうか。

 食うのかな、生きるために。

 思いとどまるのかな、何かによって。

 人間って、何によって動物と区別されているのだろうか。

 

f:id:school_of_dog:20151105224439j:plainあ、そういえばボクは人間ではなくて犬でした(設定の忘却)。

 

 色々と「~だろうか?」という問いかけをしてきたものの、結局答えは出ず。

 でも、何かビシっとキレイに言葉にまとめられるようなものが得られなくても、色々と揺さぶられただけで、本書を読んだ価値はありまくった。

 

 チープなことを言えば、「誰も見ておらず、危険がまったくなければ、赤信号になっている短い横断歩道を渡るか?」という議論に似ているように感じた。

 あれ、ちょっと違うか。

 

(本文には書かなかったけど、NHK「100分de名著」も参考にした。部分的に塚本晋也監督の映画『野火』も使われており、非常にサイケデリックな表現もあり、色々な意味で異色な回だった)

大岡昇平『野火』 2017年8月 (100分 de 名著)

大岡昇平『野火』 2017年8月 (100分 de 名著)

 

 

【180502 追記】

f:id:school_of_dog:20151105224439j:plain人肉食、カニバリズムについて自分は本当に何も知らないなぁと思い、追加で一冊だけ本を読んでみた。

 中野美代子『カニバリズム論』(ちくま学芸文庫)である。

カニバリズム論 (ちくま学芸文庫)

カニバリズム論 (ちくま学芸文庫)

 

 

f:id:school_of_dog:20151105224439j:plain表題作「カニバリズム論」は、古今東西さまざまな文学作品・歴史的な出来事を引用し、カニバリズムの本質……を通過して、いま良識とか良心と呼ばれているものの「もろさ」を暴こうとする作品だった。

 中野美代子の本文、および山田仁史による解説を読むと、「これは理性的である」「これは理性的でなく、人間的でない」というモノの見方は一面的かもしれないよという疑問提起が見えてくる。

 

 仮に解説が述べる通り、「カニバリズム論」が「良識」の虚構を暴き、曝し、嗤うことを目的としているのなら……、

 その中核のひとつとなっているのは、『ガリバー旅行記』を書いたスウィフトによる「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」(1729年)という、何とも長い文章の紹介である。

 

アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案 - Wikipedia

 

 スウィフトは、いかんともしがたいほどの貧困に直面しているアイルランドを救う手立てとして、「12万の子どもの内2万を繁殖用に保留し、残りの10万を食材として貴族に売ること」を提案している。

 本文の中では、豚や牛の肉と同様の描かれ方が、人間の赤ん坊に対してなされている。

 

 ある中学校の生徒がこんなことを言った日には、怒られるというよりも心配されて、先生たちからむしろ優しく接されるようになるのがオチであるというくらいの過激論だ。

 だけど、「良識」というのを取り除いて考えれば、アイルランドの窮乏を救うためにはこれがベストな方法ではないのかとスウィフトは主張するのである。

 良識的な面にはまったく触れず、淡々とその利点のみを説明するあたりに、狂気を感じるのか、それとも……。

 (というか、スウィフトはこれを思考実験や風刺として言っただけなのかな? 本気で言ったのかな?)

 

 世の中には、いろいろな考え方がある。

 ボクは残念ながら、教科書的な考え方しかできないかたっ苦しいイヌなので、スウィフトや中野美代子の話を聞いて「その通り!」とただちに首を縦に振る柔軟性は持っていなかった。

 

 だけど、『野火』で、食べなかった「私」は正しい人間性を維持し、食べた永松や安田は動物に成り下がった……とする捉え方は安直なのかもしれないと思うようにはなったかな。

 ただ、『野火』単体ですら濃くてよく捉えられないのに、さらにはカニバリズムのなんたるかについて考えるのは、ボクのファミコンカセット並みのメモリでは不可能なので、この辺りでエスケープしておくことにする……。