School of Dog?

イヌが読書やら雑談やら。

NHK「人間は何を食べてきたか 第1集 一滴の血も生かす ~肉~」+鯖田豊之『肉食の思想』

人間は何を食べてきたか 第1巻 [DVD]

人間は何を食べてきたか 第1巻 [DVD]

 

f:id:school_of_dog:20151105224445j:plain「人間は何を食べてきたか」。

 もう30年も前のNHKの映像だが、ジブリの宮崎駿監督がその「すごさ」に惚れ込んで権利を購入した。

 確かに、この映像シリーズはすごい。

 ゆるーく見れば食をテーマにした世界紀行として、じっくり見れば地理・歴史・思想・文化を知るための疑似フィールドワークとして楽しめる。色々な見方ができることからも、この映像の奥深さが分かる。

 

 このシリーズ、適当に見るのはちょっと惜しい。予習してからちゃんと見たい。そして気付いたこと、考えたことを書いてみたい。そう思ってこの記事を、このカテゴリを作ってみました。

 ワタシはプロでも何でもない、ただのご飯好きのおばちゃん。過度な期待はせず、ちょっと気合の入った感想記事としてご覧いただければ幸いです。あ、なので既視聴の方を想定して書いています。そんな見方もあるんだなーってな感じで、一緒に楽しんでいただければ幸いです。

 

 今回、予習のために使ったのは鯖田豊之先生の『肉食の思想』。初版1966年、今でも読みつがれるヨーロッパ思想の名著だ。

 鯖田先生はまえがきで、ベネディクトやライシャワーが外からの目で日本を分析することにより日本人が気づけない日本像を提示しているのに対し、日本人がヨーロッパを研究をする時はヨーロッパの立場に立っていることが不満であったと述べている。

 それなら、自分が日本の立場からヨーロッパを分析しよう。日本とヨーロッパで大きな感覚の違いがある「肉食」を切り口にすることで、ヨーロッパの思想・精神を見てみよう。そういう試みの本。

 この本を読んでから「人間は何を食べてきたか」を見ると、最初に見たときには気づけなかったものが色々と見えてきた。

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))

 

 

f:id:school_of_dog:20151105224445j:plainさて、第1集の「肉」なわけですが、DVDパッケージからも分かる通り豚の解体シーンがひとつの目玉となっている。この衝撃的なシーンがやけに印象に残る。

 12分くらいからの、西ドイツはアリツハイムに住むビュットナー家の豚の解体。この平均的な家庭では1年に4回豚を「潰す」。「潰す」という表現に、日本との感覚の違いを思い知る。あぁ、同じ人間でも環境が違うと考え方もやはり違うのだなぁ。

 

 だけど、よく考えたら豚の屠殺はワタシたちにとって非日常でも、豚肉を食べることは日常なのだから、もしかしたら日本の方が本来的には異常(この言い方には語弊があるかも)で、ビュットナー家が通常なのかも。日本では、自分が食べているものが動物であるという事実がほとんど見えない。

 以前旅行をしていたら、知らないおじさんに「なぁ、最近の若いのって本当に、食と死の間のつながりが見えていないよなぁ。それって何かがマズいんだと思うんだけど、何がマズいのかはうまくいえないんだよなぁ」と言われたことがある。や、初対面のワタシになぜ突然その話題を選んだ、と疑問に思いつつ、とりあえず「はぁ」なんて返事をしましたけど。

 まぁ、かといって小学生に豚を飼育させ、それを食べさせるという教育が是か非かというとまた別の議論になってくるのでしょうけど。

 

 ビュットナー家に話を戻しましょう。

 オスの豚が屠殺されるシーン。

 豚に何かを注射(?)して殺すところ、映像ではなく静止画になる。一瞬壊れたのかと思ったけど、作り物ではない本物の動物を意図的に殺すというシーンを映像で流すのは何かのタブーに触れるのだろうか。

 豚の解体をする手際のよさは、見事としか言いようがない。誰が次に何をしなければならないのか、言葉にしなくても意思疎通がなされている。この行為を何度も繰り返しているからなのだろう。

 

 絵でも作り物でもない、死んだばかりの哺乳類の内臓をNHKの番組で見るということにインパクトがありすぎて、豚の解体シーンについてたくさん書いてしまった。けれども、他にも印象的なシーンは何個かある。

 日本では見たことがないほどキレイなソーセージの断面。

 動物がほぼそのままの形で売られているパリのランジス公益市場。

 

 本当に、映像というものは素晴らしい。想像力を駆使して読書をするのも大切だと思うけど、百聞は一見にしかず。普通に日本で生活していたら見られないものを、家にいながらして見られるとは、すごい時代だなあ。そうしてまた、ワタシの出不精がはかどってしまうのである。

 

 この映像を見ていて、ふたつの大きな疑問が浮かび上がってきた。

 

 疑問のひとつめ。

 番組の最後で、次のようなナレーションが入る。

 

 「日本では、肉食は美食の象徴のように言われている。しかし、ヨーロッパで肉は、厳しい風土がもたらした、人間が生きるためのギリギリの食べ物でした」

 

 なぜ、日本では肉は贅沢品で、ヨーロッパでは肉は贅沢品ではなく、それどころかギリギリの食べ物なのだろうか。

 厳しい風土という言葉がキーワードになっているみたいだけど、もうちょっと具体的に知りたい。

 

 ワタシがこの問いに興味を持ったのには、次のような事情がある。

 ワタシは基本的に外食をせず、可能な限り自分でご飯を作っているのだけど、お肉を買うときはやはり勇気がいる。理由は他でもない。お高いからだ!

 スーパーの精肉売り場でよく逡巡しているワタシはもはや不審者。あまりに安すぎると美味しくないけど、いいお肉は高い。うーんどうしようかと迷って、最終的に豚こま肉を買うことが多い。下ごしらえで相当柔らかくなるけどね。

 ワタシには、やはりお肉は贅沢品であるという感覚がある。だけど、ヨーロッパではそうではないというのだ。なぜなんだ! 気になるー!

 

 鯖田先生の『肉食の思想』を読んで、答えが少し見えた。

 

 本来は「主食」として食べることができる穀物を、「わざわざ」家畜のエサにまわしてしまえば、そりゃ肉食は贅沢というもんだ。穀物を家畜のエサにすると、そのまま食べるのに比べて摂取できるカロリーは18.5%まで落ちてしまうそうだ。

 しかし、ヨーロッパでは事情が違う。家畜はそこらへんに生えている草を勝手に食べて育つため、穀物をわざわざ家畜のエサに回す必要がない。

 日本でもそうすればいいじゃないか? それはできない。日本はヨーロッパと比べて気温と湿度が高く、草が育ちすぎる。そうすると、家畜の歯では噛み切れないほど固くなってしまうのだ。気温・湿度ともに日本より低いヨーロッパでは、草は育ちすぎない。

 家畜の歯! 考えてもみなかった。

 

 一方で、ヨーロッパに対して日本の気候が有利な面もある。ムギではなくコメを育てることができることだ。

 地理の教科書によく載っている、「こういう気候条件ならこういう農作物を育てることができる」という表を見れば、ムギよりもコメの方がより高い気温、多い降水量を求めていることが分かる。

 

 ムギとコメの間には、「キミはパン派? ご飯派?」の問いで片付けられるほど簡単ではない違いが存在する。

 ムギは同じ土地で作り続けると、土地の栄養がなくなって育たなくなってしまう(連作障害)。だからヨーロッパでは、三圃式農業のようなしくみが必死に考えられてきた。

 一方でコメは「水稲」なので、栄養分を含んだ水が入れ替わることにより、栄養がなくなるという問題は起きない。

 今は化学肥料でムギの問題をある程度解決できるそうだけど、化学肥料がなかった時代はムギの生産は難しかったことだろう。

 

 大雑把にまとめると、次のようになる。

 

 日本(ヨーロッパに比べて高温で多湿)

  穀物○(コメを生産できる。コメは水が入れ替わるので、栄養が補充される)

  肉食×(草が育ちすぎ、天然の飼料が得難い)

 

 ヨーロッパ(日本に比べて気温、湿度ともに低い)

  穀物×(ムギの生産は土の栄養という観点で難しさを伴う)

  肉食○(草が育ちきらず、その辺に生えている草が家畜のエサとなる)

 

 こうしてみると、ヨーロッパにおける肉食は元来「贅沢」ではなく、穀物で満腹になれないけど飢え死にしないための「最後の手段」であったことが分かる。言い換えれば、そこいらに生えている人間が食べない草を、家畜を通してカロリー転換してきたということか。

 ビュットナー家では、目玉とひづめ以外は豚のすべてを利用していた。膀胱だって使っていた。血の一滴もムダにせず、可能な限り回収する。日本との気候・風土の違いから導かれるこうした事情や伝統を知れば、このシーンの見え方が変わってくる。

 

 もちろん、今ではヨーロッパも他国から十分な穀物を輸入することは容易いだろうし、映像では家畜に与えているエサは7割が自家製だと説明されていた。さまざまな面で、昔とは事情が違う。牛と豚をごっちゃに話しているところも、精密さを欠いている。

 けれども、ヨーロッパの歴史と風土が培った伝統は今でも「一滴の血もムダにしてはいけない」という食生活パターンを作っていることは間違いなさそう。

 

 疑問のふたつめ。

 豚の解体をしているとき、NHKの女性ディレクターは目をそらしていたが、10歳の女の子・ドーリスちゃんはポケットに手を突っ込んでさも当たり前のように見ていた。その表情はまるで、料理しているお母さん、日曜大工をしているお父さんを眺めているような。

 それから、パリのランジス公益市場には動物の肉(我々から見れば死体)がそのまま売られている。そこに人々が普通に食材を買いに来る。

 元の形が分かる肉のグロさ・怖さに対する耐性が日本人とヨーロッパ人でここまで違うのはなぜか? そこには、「慣れ」の一言では片付けられない何かがあるような気がした。

 

 鯖田先生は、この問いにも見事に答えている。

 穀物で満腹になることができない厳しい風土の中、ヨーロッパでは肉を主要カロリー源として摂取することを余儀なくされる。しかし、魚のように人間とはあまりに形も生態も違うものはともかく、同じ哺乳類を食べることは、本来抵抗があるはずだ。

 それでも食べられるようにするためには、はっきりと「人間と家畜は違う」ということを示す必要がある。その姿勢を明確に打ち出したのはユダヤ教・キリスト教だった。

 

 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう」

 ……旧約聖書の一節だそうである。確かに、人間と動物の「断絶思想」を示している。

 

 そういえば、解体した豚を食べるビュットナー家の壁には、当然のように十字架があった。ちょっとしたシーンだけど、予習をしてから見ると考えさせられるものがある。

 このような思想は、「元の形の分かる」肉を食べることに対する抵抗のなさにもつながっている。映像でも、脳みそや頭が原型をとどめて(?)ヨーロッパの食卓に登場していた。日本人なら敬遠することだろう。証拠に、日本では基本的に肉を切り身の形で食べている。

 

 他方で、ヨーロッパには動物屠畜だけではなく、動物愛護の精神もあるという。しかし、殺すことが愛護の精神に反するのではない。苦しみを与えることが反するのだ。

 そういえば、番組後半に登場するユダヤ人の肉屋。

 「喉を切って屠殺するのですが、動物を苦しめてはいけません。そのため、ナイフが鋭く研がれているかよく調べます」

 この言葉の背景にも、何かが見えた。

 

 ところで、この記事は鯖田先生の本を相当に「悪用」している。

 鯖田先生が述べたかったことの前提部分しか活用していないからだ。鯖田先生が本当に書きたかったことをほぼ何も使っていないからだ。

 

 本来、『肉食の思想』はここで紹介した食生活パターン「によって」ヨーロッパの思想がどのように作られているかを考察する本である。

 人間と家畜の断絶思想は、人間と人間の断絶思想を呼び、ヨーロッパ固有の社会制度を作ってきた。日本と比較したとき、結婚の方法、特権階級の思考、自由主義・平等主義の受け止められ方までぜんぜん違うのだけど、「こうなったのは、もとはといえば、食生活パターンのくいちがいのせいである」(p.172)。すごい断言っぷり。

 

 さまざまな例を縦横無尽に引っ張り出して、ビシバシと考察していく。これが100%の「正解」かと問われればそれは分からないけど、ワタシはこういうタイプの本、大好きだなぁ。何を目的として読むのかによるのでしょうけど。

 この記事で引っ張ってきた食生活パターンの先が『肉食の思想』の真骨頂なのでしょうが、「人間は何を食べてきたか」の感想記事としては逆に脱線してしまうので、こういうズルイ使い方ですがご勘弁いただくということで……。

 

 このように、多少でも下調べをしてから読むと、「人間は何を食べてきたか」の何気ないシーンのひとつひとつからも色々なことを読み取れる。これはいいものだ! 色々な分野の勉強になるし、何より謎解きをやっている気分になれて楽しい。できればシリーズ通してこうした勉強をしてみたいな。