栃木県とも、茨城県とも、群馬県とも、埼玉県ともいい難い場所、「渡良瀬遊水地」にやってきたわよ。
ここの近くには、「三県境」なる不思議な場所もあるくらいですからね。
埼玉県・群馬県・栃木県の県境がぶつかる「三県境」。
渡良瀬遊水地のすぐ近くにある。
3つの県境が平地でぶつかるのは、非常に珍しいようで。
3つの県を1秒以内に回ることもできれば、「関東地方で東京と神奈川の次にすげぇのはどいつだ選手権!」を開催することもできる、ステキな場所。
お母さんが小さい子どもと一緒に遊水地の周りを散歩していたり、カッコイイ自転車に乗ったお兄さんたちが疾走していたりと、みんな思い思いの休日を過ごしているわね。
自然も豊かで、穏やかな場所ですからね。
そして、この渡良瀬遊水地だけど、空中から見たらハート型になっているのよね。
何だかロマンチック!
確かに、かなり特徴的な地形ですよね。
Googlemapで調べても、簡単に見つけることができました。
ですが、実はここには、「ロマンチックで穏やかな場所」だけでは済まされない歴史が隠されているんです。
え、怖い話?
幽霊とか出るのかしらん。
怖い話……まぁ、ある意味怖い話かもしれません。
実はこの遊水地、村をひとつ沈めて造られたものなんです。
え!
じゃ、じゃあ、この遊水地の底には村が沈んでいるの!?
比喩表現ですよ。
実際に、この遊水地を造るために村がひとつ消えたことは間違いないですけれどもね。
村の名は、谷中村(やなかむら)。
そして、この話に関係があるのは、あの田中正造です。
「足尾銅山鉱毒問題」の人だったかしら。
天皇に直訴状を突きつけようとしているシーンだけ、なんとなく覚えているわ。
生涯を田中正造の研究にかけた、故・小松裕氏(熊本大学教授)は、こんなことを言っています。
1992年4月2日、私は、渡良瀬遊水地を訪れた。
かつて、そこに、谷中村という村が存在していたが、足尾銅山鉱毒問題の「終局」をはかろうとする政府の手で取り潰され、遊水地にされたところである。面積、およそ3300ヘクタール。……
春休みとあってか、広々とした草地に家族づれが思い思いに弁当の輪を広げ、子どもたちはたこあげをして走り回り、レンタサイクルの設備も整えられ、よく賑わっていた。昔、田中正造が「鉱毒沈殿池」とよんだ遊水地は、ハート型の「谷中湖」となり、湖面ではたくさんの若者がボードセーリングに興じていた。それは、どこにでもみられる「平和」な日本の一風景に過ぎなかった。
いったい、私たちは、田中正造や足尾銅山鉱毒事件のことをどれだけ語り継いできただろうか。
(小松裕『田中正造ーー未来を紡ぐ思想人』より)
沈んだ谷中村から何を学べばいいのか。
難しそうな問題ね。
私自身も勉強したいので、これを機に、ちょっと考えてみられればな、と。
実際に谷中村があった場所に向かいながら、谷中村が沈んだ経緯をしゃべってみましょう。
ふんふん。
細かなところはバッサリ切って、さらっといきますよ。
時は、19世紀終わりから20世紀頭。
日本はペリーに開国を突きつけられ、列強に不平等条約を結ばされて以来、帝国主義の中で足掻き、植民地化されないように努力しておりました。
強い国にならねば。
このような背景で、足尾銅山鉱毒問題は起こるわけです。
足尾銅山というのも、同じく栃木県にある銅山よね。
銅は電気器具・建築・工業などなど、色々な用途に使われるから重宝されるわ。
一方で、銅を作る過程では、方法を誤ると毒が出てしまうとか……。
その通り。
日本は、銅の一大生産国・輸出国だったのです。
これによって日本の経済は発展しますが、鉱毒問題も無視できない。
鉱毒は渡良瀬川を伝って、洪水によって溢れ出し、動物や作物にダメージを与えるようになります。
民衆からは不満の声が上がる。
政府は何とかしてこの問題を鎮めたい。
そこで出てきたのが、「遊水地を造る」という対策です。
遊水地ってあまり聞かないのだけど、要は、洪水が下流に行かないように溜めておくための池、ということよね。
でも実際の目的は、鉱毒を沈めることだった、と。
これまた詳しくないから分からないのだけど、流水の中にある鉱毒は除去するのが難しい上、洪水で溢れると生活域にも鉱毒が入るから、遊水地で止めて処理する、という理解でいいのかしら。
そのあたり、私も自信ありません! きっぱり!
さて、遊水地を建造することになったのですが、地理的に適当と思われる場所には既に「谷中村」という村がありました。
早く鉱毒問題を沈静化させたい政府にとっては、この村の存在は「邪魔だなぁ」の一言に尽きます。
谷中村って、どういう村だったの?
谷中村には、2,700人が住んでいたという記録があります。
「日本無比の沃土」と言われるほど、農業的には恵まれた土地であったそうですね。
ですが、そんなことは政府には関係ありません。
結局、あの手この手で(ずいぶんと非道いことが行われたようですが)住民を追い出し、強制的に廃村にしてしまいました。
なるほどなるほど。
なんとなーく、流れはつかめたわ。
渡良瀬遊水地にあった案内板。
気になる方は、ズームして読んでみて下さいませ。
そんな話をしながら、ずっと歩いているわけだけど……。
舗装路を外れて、エッライ道をずーっと歩いているんですけど!
ワタシ、仮にもレディなのよ!
虫多すぎ!
あ、着きましたね。
無視ってか。
虫だけに。
谷中村跡を写真でご紹介。
とはいえ、今は本当に何もない。
大野音次郎屋敷跡。
雷電神社跡。北関東で、雷電神社なるものをいくつか見た記憶がある。雷除け・厄除け・豊作祈願などの神様。「くわばら、くわばら」というおまじないからも、当時の人々は雷を恐れていたことが分かる。確かに、ワンピースでエネルが出てきたときの絶望感、半端なかったもんな。雷は怖いわ。うん。
延命院の半鐘。延命院とは、当時ここにあった大きな寺院のこと。この半鐘は、1986年、埼玉県幸手市の消防署施設から見つかったものだそう。
谷中村役場跡。今では単なる東屋(公園の休憩所)みたいになっちゃったけど、ここに役場があったんですなぁ。
私はここで、道徳的に「谷中村の人を可哀想だと思うべし」なんてことをわざわざ言いたいわけではありません。
ですが、谷中村から学ぶべきことはたくさんあるような気がするのです。
どう表現すればいいのかわかりませんが、「最大多数の最大幸福」とか、「多数決の原理」とかの限界といいましょうか……。
効率と公正のバランスをどう取るかといいましょうか……。
多くの人が幸福になるなら、少数の犠牲致し方なしといってもいいのかという、そういう問題について考える上では、重要な場所であること間違いありません。
福島の原発問題とか、公害問題とか。
そこまで大規模なものでなくても、町の中のどこにいわゆる”NIMBY”を作るかとか。
この種の問題は今でもたくさん起こっているわよね。
谷中村の例は、こうした問題の中では田中正造の努力や、その後の研究者たちによる熱心な議論によって、相当に醗酵しているような気がしたわ。
私が知っている本の中でも大傑作だと思うもののひとつに、中村哲氏の『医者、用水路を拓く』というものがあるのですが、この中でも田中正造について触れられていたように記憶しています。
これからも、多数のために誰かが犠牲になるようなことは何度も起こるでしょうが、谷中村はその度ヒントを与えてくれるはずです。
帰り道、ススキが一面に生えていた。谷中村の歴史も相まって、寂寥感がある。
ちなみに、渡良瀬遊水地は行くのがなかなか難しい場所にありますが、私がここに来たのは縁あって二回目です。
かつて来た時は使い捨てカメラしか持っていなかったので(よく覚えていないが、なぜ……)、1枚だけ撮影しました。
【参考資料】
・荒畑寒村『谷中村滅亡史』(岩波書店、1999)
→ 当時の文章がアツい。「あゝ谷中村は遂に滅亡したるか、20年の久しき、政府当局の暴状を弾劾して、可憐なる村民のために尽瘁し来れる、老義人田中正造翁が熱誠は、空しく渡良瀬川の水泡と消え去るべきか」という出だしからも、憤りが伝わってくる。社会主義の立場から書かれていることに注意すれば、細かな経緯が分かる本。
・小松裕『田中正造ーー未来を紡ぐ思想人』(岩波書店、2013)
→ 田中正造の「思想」を明らかにする良書。これについては、別記事を立てたい。
・渡良瀬遊水地内に立っていた看板
【派生記事】
www.school-of-dog-11111111111.com
谷中村問題というフィルターを介さずに渡良瀬遊水地を見てみようという、短い感想記事です。