School of Dog?

ブログというより、昔のホームページみたいな……。

スピッツ「あわ」と、カミュ「シーシュポスの神話」


あわ/スピッツ アコギインスト カバー

 

※今、スピッツ界隈がアツいですね。

 便乗して、好き放題、スピッツについて書きたい所存。

 スピッツの歌詞については、既に多くの方が考察されています。

 また、草野マサムネ氏本人が説明している部分もあります。

 でも、そういうの全部かっ飛ばして、自分が思ったことを書きたいなぁ。

 

※上のYoutubeのも結構古いやつですね。

 どういう経緯で録ったんだっけ……。

 

名前をつけてやる

▲スピッツの『名前をつけてやる』。『空の飛び方』と並び、個人ランキング1位。ちなみに、第3位以降は、『スピッツ』→『三日月ロック』→『惑星のかけら』&『Crispy!』と続きます。

 

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainスピッツの名盤『名前をつけてやる』から「あわ」です。

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainワタシの中では、スピッツ最強の名曲!

 「ロビンソン」にも引けを取らないイントロのアルペジオ。

 気の抜けていて、それでいて絶望的で、かと思えば生を諦めていない歌詞。

 ジャジーな演奏。

 正直、いっちばん好きなのよ。

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainあえてこの曲が一番好きだって人は、そんなにいないかもしれませんね。

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainいやね、最初に聞いた時は、ワタシの中に雷が落っこちたほどの衝撃だったわ。

 語り始めちゃうとどこまでも行っちゃうから、ほどほどにしようかしらん。

 (※結局、この記事の最後で好きなだけ語ります)

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plain……。

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainあっ、今、「うるせえこのBBA」とか思ったでしょー☆

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainえっ!?いやまさかそんな!!

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainうふふふふふ☆

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plain(スピッツマニアこえええ。)

 

f:id:school_of_dog:20160216082933j:plain

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainそれにしても、「あわ」なんてタイトル・題材はどっから出てきたんでしょうね?

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plain初期スピッツはよく「死」を描いているというから、まさしくあわが溶け出す様子がそれなんじゃないかしら。

 最初の「こっそりみんな聞いちゃったよ 本当はさかさまだってさ」ってのは、ワタシはそんなに大げさなことじゃなくて、日常の中でふと「あ、自分はいつか死ぬんだな」ってことに気づくその瞬間を指しているのだと思うわ。

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plain誰しも、小さな頃にそういう経験をしますよね。きっと。

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainこの曲は、決して劇的な光景を描いているのではないのよ。

 畳の匂いをかぐようないつもどおりの日常が続いて、それでも自分はいつか死ぬんだということに気づいてしまったその瞬間にあわになって溶け出す。

 何だか、それに気づいてしまった瞬間に目の前にシャボンの膜を張られたように世界の見え方が変わるというか。

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainなるほど……?

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plain深読みしているようでいて、ワタシなんにも深読みしていないわね。

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainところで、『名前をつけてやる』というアルバムが発売されたのが1991年ですよね。

 でも、この曲はインディーズの頃からあったとのこと。

 だとしたら、きっとこの曲は1980年代後半に作られたのでしょう。

 まさにそのタイミングで「あわ」と言ったら、日本中が騒いでいた「バブル崩壊」が真っ先に思い浮かぶのですが。

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainバブル景気の中にいる人って、それがバブルだとは気づかず、単なるものすごい好景気に感じるっていうわよね。

 でも、それはいつか弾けるものだった。

 こっそりみんな聞いちゃったよ、本当はさかさまだってさ。

 日本はイケイケだと思っていたのに、本当はさかさまで、市場コントロール権を誰しもが失って、崩壊の目前だったのが「本当はさかさま」なんじゃないかしら。

 何だか、この曲、バブル当時の人々がすべてを失った様子を描いた曲かもしれない説もワタシの中で生まれちゃったわよ。

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plainブレブレじゃないですか!

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plain冗談よ。

 でも、この曲がバブル崩壊そのものを描いたわけではないでしょうけど、この曲の種については、当時の時勢が与えたような気もするのだけどね。

 

f:id:school_of_dog:20160216082933j:plain

f:id:school_of_dog:20151105224442j:plainさて、ここからは一人で語りたいなぁと、シェパード先生にはご退席いただきましたよ。

 スピッツの「あわ」が好きすぎる私は、何度もこの曲について語り、そしてそのデータをHDDの奥底に沈めてきました。

 そのうちのひとつをサルベージできたので、ここに掲載してみます。

 もう、何年前に書いたものなのかもわかりませんが……。

 思春期の頃の私の、鬱屈して屈折して歪曲したスピッツ愛をさらけだしましょう。

 読み返してみると、何を言っているんだかという感じですがね。

 (マジで長いので、お暇な人だけ)

 

f:id:school_of_dog:20160216082933j:plain

f:id:school_of_dog:20170706215542j:plain

▲当時撮った写真。読書録を載せるブログだった気が……。そして、本の上にはなぜか会津で買ってきた起き上がりこぼしを置いていた気が……。この頃は、犬というキャラすら存在していなかった。蘇るは黒歴史なり。あ、今も更新中か。

 

 死んだらどうなるのか。無になるのか。でも、無になったら、無になるってことも捉えられないじゃないか。それってとても怖いことではないか。第一、いつか無になるという結末が分かっているのに、生きていることに何か意味はあるのか。

 そもそも、こんなことを考えているのは私だけではないのか。友人に、先生に、家族に、テレビに映る芸能人に、街を歩いている人々に、意思は本当にあるのか。実は自分以外はプログラムでしかなくて、意思なんてないのではないのか。

 ただ一つ確かなことは、自分が今考えているということだけで(私はデカルトなのである)、それ以外は肯定も否定もできない。なら、本当に「生きている」のは私だけではないのか。

 ということは、死ぬこと、無になることを経験するのは、私だけではないか。それって、とても怖いことではないか。

 というか、自分が考えることをやめたら、自分もプログラムとして飲み込まれるのではないか。自分のこんな考えも、神様に読まれているのではないか。おっと、そうはさせないぞ。神様が私の考えていることを読めるってことは、私にだけはばれているんだからな! ばれているんだからなー!! このやろう、私の脳みそに干渉してくるんじゃねぇええええ!!

 

 ……誰しも、こんなことを考えたことがあるのではないでしょうか。私は、特に高校を卒業するくらいまでは、ずっとこんなことを悩み続けていました。

 今では笑い話ですが、小学校1年生の時に布団の中で上のような考えに至り、自分は何て恐ろしいことに気付いてしまったのだろうとものすごく怖くなりました。世界の秘密を知ってしまったような。神様と戦うために、数日間学校に行けなくなってしまったこともありましたね。

 その後も定期的にこんな悩みを抱え、特に幼いころは苦しんでいました。しかし、大人になるにつれて、ひねくれていますが、徐々にこんな考えを逆手に利用する技術を身に付けたのです。すなわち、大事な発表や試合などで緊張した際には、いつかどうせ死ぬのだし、死ねばすべて消えるのだし、なんで生きているかなんて考えたって答え出ないし、みんなはプログラムかもしれないし、つまり私が今ここでどれだけ恥をかいたって関係ないし、と、開き直りをすることで、緊張を消すんです。これは今思えば、典型的な思考放棄ですよね。でも、それでいいのだと乗り切ってきました。

 しかし、このような答えの出ないであろう問いに真正面から向かい合う本『シーシュポスの神話』に出会い、私も久しぶりに、生きる意味とか、死んだらどうなるのかとか、そういった問いに直面させられることになったのです。

 以前の私は、バカみたいに真剣に考え、神様に「ばれているんだからなー!!」と抗ってみたり、インターネットで「タナトフォビア(死恐怖症)」について調べてみたり、果ては大学では文学部に行って、生きる意味、死ぬ意味について学んでみようと意気込んだりしていたものです。実に黒歴史ですね。しかし、大学に行き、あるいは大学を卒業し、歳のせいか、忙しくなってきたせいか、考えることを忘れていました。

 当時、この本に出合っていれば、意味はよく分からずとも、何かもっと切実な感じ方をしたのだろうなと思います。この本は薄いですが、非常に難解で、それでいてものすごい思考の世界に引きずり込まれている感じがするのです。私は恐らく、著者が伝えたかったことのほんの一部しか理解できていませんし、それが合っているのかと問われたら自信がありません。でも、夢中で読んでしまいました。

 私たちは繰り返す毎日を何気なく送っていますが、ある日急に「なぜ」という問いが頭をもたげることがあります。私の経験でいえば、最初に書いたような「なぜ、私以外の人が生きていることを証明できないのか?」ですね。これに気付くことを、「ふと、舞台装置が崩壊する」とカミュは表現しています。

 私はスピッツの「五千光年の夢」という曲の中に出てくる、「すべてが嘘だったと分かった」という歌詞、あるいは「あわ」という曲に出てくる、「こっそりみんな聞いちゃったよ 本当は逆さまだってさ」という歌詞に、なぜかものすごく惹かれます。その理由は、これらが「舞台装置が崩壊」したことを表していると、私には聞こえるからなのでしょう。草野マサムネさんがどういう意図で書いたかは別として、私にはそう聞こえて、どうしようもない切なさとか絶望を感じるのです。

 カミュはこのような人生の不条理性(なぜ生きるのかとか、そういう問題は考えても答えが出ないと重々把握しているにも関わらず、どうしてもそれを知りたいという欲望も確かに存在し、それらが対峙している状態)に対して、自殺をしたり、答えがないことが答えだと結論付けたり、答えを知る超越者たる神という存在に助けを求めたりする方法も確かにあるが、それ以上に考え続けることこそが大切だと主張しています。幼いころの私が、それこそ本当に苦しんでいた私がカミュの言葉を聞いたら、どれだけ勇気づけられたことでしょうか。

 ちなみに、この本はブックオフで購入しましたが、本を開いたらずいぶん昔の手紙が挟まっていました。手紙自体は当然お見せできませんが、なんかこういう発見をすると得した気分になりますよね。

(以上)