藤沢周平『蝉しぐれ』に学ぶ「普遍的な人間性」

蝉しぐれ

蝉しぐれ

 

 f:id:school_of_dog:20151105224439j:plain藤沢周平の『蝉しぐれ』は何度も読んだ大好きな作品だ。

 文章の美しさと、こう言ってしまえば俗っぽすぎるけど「週刊少年ジャンプ的な友情・努力・勝利! ときどき恋愛♥」のスリリングさが両立されている。

 時代小説なんてオッサン臭いけど、まぁこれも勉強だと思って読んでみるかなぁという失礼な気持ちで大学1年生のときに初めて読み、ドップリハマり、以来5、6回は読んだ。

 

 その『蝉しぐれ』が、広島大学が掲げる「教養を得るための必読書101冊」の中に入っている。

 初版「はじめに」によれば、広島大学の『大学新入生に薦める101冊の本』は初版の段階で、色々なブックガイドや大学教員の話を参考に約2,000点の重要書をピックアップし、そこから101冊にさらに絞ってあるとのこと。だから、適当に選ばれたわけではないに違いない。新版では、さらなる精査がなされたはずだ。

 それほどまでに絞られたリストの中に『蝉しぐれ』は入っている(初版の方には入っていないけど)。しかも「面白い本」としてだけではなく、「教養を得られる本」として。これって、結構スゴイことなんじゃないのか。

 今まで面白い面白いという気持ちだけで読んでいた『蝉しぐれ』から何を学ぶことができるのだろうか?

 

 『101冊』では、藤沢周平が時代小説の体裁を取りながら描こうとしたのは「普遍的な人間性」であり、時に悲運を背負いながらも懸命に生きる人々の哀歓がつぶさに描かれる、と解説されている。

 なるほど、封建制の時代と現在とでは背景が異なりすぎるじゃないかと一瞬思ってしまうけれども、むしろ違うからこそ普遍性が浮き彫りになるのか。

 

 『蝉しぐれ』の主人公である牧文四郎は、尊敬していた父を藩への反逆の罪によって突然失い、さらには淡い恋心を抱いていたふくが藩主の側室に召されてしまう。

 こうした文四郎の「喪失」には、著者・藤沢周平の半生が投影されている気がする。

 

 藤沢周平も若かりし頃、当時28歳だった妻・悦子を亡くしている。藤沢は「そのとき私は自分の人生も一緒に終ったように感じた」と当時を振り返っている(藤沢周平『半生の記』)。しかし同時に、死者がいくらあわれでも、うしろ向きの虚無感に歯止めもなく身を委ねるのは好きではなかった、とも考えたそうだ。すごい方だ。

 藤沢は、胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちを吐き出したく、(当時は小説家として生きていくつもりは夢にも思っていなかったそうだけど)手近にあった懸賞小説に応募したのだそう。

 

 こうした喪失の辛さを経験しているから、藤沢周平は文四郎に再生の道を示せるのだ。決して救ったわけではなく、文四郎が主体的に再生したのだと思う。藤沢は文四郎に、喪失を乗り越えるための道しるべとして友情や剣を与えた。

 

 『蝉しぐれ』に描かれる「普遍的な人間性」とは結局、自分ではいかんともしがたい状況のなかで喪失を突然経験してしまうことがあるが、そこから再生していくための手がかりは必ず見いだせるということなのかな。

 そして、その手がかりはいつの時代だって友情と成長だったりするのかもしれない。

 なんだかこう書いてしまうと陳腐だけれど。

 

 ボクも逸平や島崎みたいな友人がほしいし、これ以上なく爽やかな青春を送ってみたいでござる。

 

(参考にしたもの)

・藤沢周平『半生の記』

半生の記 (文春文庫)

半生の記 (文春文庫)

 

 

・「歴史読本」編集部『藤沢周平を読む』

藤沢周平を読む

藤沢周平を読む

 

先生が自分を追い込みすぎると……/菅原敏『今、心が苦しい先生へ』

今、心が苦しい先生へ

今、心が苦しい先生へ

 

f:id:school_of_dog:20151105224440j:plain教師は、強くなければならない。頼りがいがなければならない。常に成長し続けなければならない。それはもちろん、間違いないことだ。

 だけど、自分がしっかりせねば、もっともっと成長せねば、そういう終わりなき「せねば」の先に待っているのは必ずしもバラ色の世界だけではない。

 

 本書は、20年以上小学校教員として鳴らした著者がうつ病にかかり、どのように仕事を辞めたのか、どのような苦しみを味わったのか、そこからどのように立ち直ったかが記されている「自伝」である。体系的に、こういうときはこうすればいいと書かれているわけではない。

 まさに「先に生きた」先生が、自分の姿を赤裸々に後輩たちに晒してくださっている。

 

 著者は、決して弱い人ではない。むしろ、若手から見たら「カッコイイ」「憧れの」先生だったことだろう。それは、著者が休職・退職するまでの仕事ぶりや実践を見れば分かる。本当にやっていたことだから、主観的で抽象的な自画自賛ではなく、具体的に書かれている。

 小6に対して「縄文土器を作って野焼きをしよう」「アルミ缶を集めてサッカーボールを買ってみよう」「タイムカプセルを埋めよう」などの実践をするのは、(私は小学校教員ではないからわからない部分もあるけど)かなりの意欲がないとムリなんじゃないかな。例えば火を使ったりとか、保護者からの了承を得たりとか、道具を準備したりとか、そういった手続きの面倒さを思うだけでも……。

 さらには自己成長のために朝早く行き、夜遅くまで残る先生だった。

 うつ病は甘えという言葉をたまに聞くけど、この先生のどこが甘いのだろう。

 

 そんな懸命の努力による技術・経験の蓄積があったにも関わらず、著者はうつ病になってしまった。母の介護と仕事へのプライドとの板挟みからである。

 母の介護のために定時に帰ることが怠けているように感じてしまった、という著者の言葉には共感した。

 

 この先生はある意味で本当に強い人だ。

 教育に関する色々な本を読んでいても、周囲の教員の話を聞いていても、「自分はこんなにスゴいんだ」ということばかりが聞こえてくる(自分もそうだな……)。その根底には、プライドがあるからだろう(いや、プライドをなくしてしまったら教師失格なのだろうけど。あ、でも天狗にはならず謙虚でなきゃいけないとも強く思うけど。うーん、うまく書くのは難しい……)。

 一方で、著者は実に赤裸々に自身の体験談を語ってくださる(あとがきに、こうした本を出すと周囲に自分が弱いと思われそうで怖いと最初は思っていた、と逡巡した跡がある)。

 学校に行きたくなくてものすごい遠回りで通勤していたこと、電話がなると怖いから家に帰ってから電話線を抜いていたこと、医師に話を聞いてもらったら涙が止まらなくなったこと、休職後はベッドから起き上がるのも辛く海外ドラマばかり見ていたこと。

 こういうことを書けるのは、「自分を」よく見せたいということではなく、「他に苦しんでいる誰かを」助けたいという気持ちがあるからだと思う。

 この勇気を見られることこそ、本書を読む最大の価値なのではないだろうか。子どもの前では強くても、教師も人間なのだ。

 

 これは半分、いや9割方悪い意味で書くけど、私はかなり完璧主義的な発想をしてしまうクセがある。だからこそ、失敗を引きずる。あの授業はヒドかったな、とか。なんで余計なこと言ってしまったのだろうな、とか。引きずりすぎるのは、自分のキライなところだ。もっとカラっとした性格でいたいのに。

 また、自分の努力が生徒に何かしらの形で現れると嬉しくて、ついムリをしてしまうことが多々ある。それこそ、誰よりも早く行き、誰よりも遅くまで残ることが美徳だと勝手に思って、体力に任せて相当に無茶な働き方をしていたこともあった。著者も書いているけど、教員の仕事には明確な終わりがなく、凝ろうと思えば、やろうと思えば、いくらでもやれてしまうのだ。泥沼だった。

 

 だから、著者の言葉は他人事ではない。

 本書を読みながら、懸命に頑張り続けた先、うつ病で動けなくなっている自分の幻影を見た。

 

 著者は優しく語りかける。誰だってうつ病にかかるのだと。それこそ20代・30代のころは精力的に教育に携わり、仕事が楽しくて仕方がなかった自分でさえかかるのだと。

 なのだとしたら、自分を助けるためにも、誰かを助けるためにも、教師は誰しもこういった本を一読しておいたほうがいいのではないかなと強く感じた。

 

 教師として常に努力し続けることは大事だけど、アクセルだけではなくブレーキも持ち合わせていないと誰しもいつしか壊れるのだということを学んだ。

茶のしたくができております……カッコイイ!/NHK「その時歴史が動いた 戦国の茶人 秀吉と闘う ~千利休切腹の悲劇~」

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www.nhk-ondemand.jp

f:id:school_of_dog:20151105224443j:plain「権力に屈せず、茶の道の美学と堺の誇りを守ろうとする筋の通った人間」としての千利休が描かれる番組。やっぱり、「その時歴史が動いた」は見ていて楽しい。

 

 戦国時代、茶道が重要な政治道具として用いられていたのは有名なお話。この番組でも、茶道は「情報交換システム」であり、茶器は「部下を自分に引きつけておく重要なアイテム」であったと説明されている。分かりやすい。

 私は茶道の心得なんてまったくなく、ペットボトルでは綾鷹が好きだなぁとかそんな程度の感覚。ほら、あれでしょ。飲み会に強いヤツって出世するじゃん。飲み会での立ち振舞いを知っておけば、えらくなれるよね。みたいな訳のわからない捉え方をしていたこともあったりなかったり。

 

 茶道の歴史を大観するのに、桑田忠親『茶道の歴史』という素晴らしい本がある。今から40年ほど前の古い本だが、語り口が柔らかく、余話もたくさん。茶道の歴史というよりかは、茶道を通して見た政治史・文化史になっていて、とても勉強になる本だった(昔の読書ノートより)。もう一回読み直したいなぁ。

 

茶道の歴史 (講談社学術文庫)

茶道の歴史 (講談社学術文庫)

 

f:id:school_of_dog:20151105224443j:plain茶道が信長や秀吉に重んじられた理由について、この本には次のようなことが書かれていた。

 茶道(サドウだと茶頭と音が重複しちゃうので、チャドウと読んだほうがいいらしい)は「人と人との暖かい心のかよい」をもっとも重視しており、戦国の動乱を平定したかった信長や秀吉が茶道を重視したのは当然のことである、と。

 それにしちゃ、この番組で表される秀吉の振る舞いは「温かい心のかよい」もあったものではないのだけど、なるほど根源的にはそういう理由で茶道が重んじられたのかと納得だ。

 

 桑田先生は『茶道の歴史』の中で、士農工商の身分秩序ができたあと、あくまで町人に過ぎない千利休はその身分からはみ出した勝手なことをやり過ぎて恨みを買っていたとか、打首ではなく切腹、しかも2,000人の護衛をつけての切腹は大名並みの厚遇であったとか、利休についてもう少し相対的な描き方をしている。利休が絶対の正義であるわけではない、といいますか。

 だけど、この番組が悪いというわけではなく、ともすれば退屈になってしまいがちな文化史を政治に絡めてスリリングに表現するという意味でとてもおもしろいものになっていた。また、いつから利休と秀吉がすれ違ったのかを示す「新史料」も興味深い。

性交とは本能でも愛の表現でもなく、趣味である?/岸田秀『性的唯幻論序説』

性的唯幻論序説 (文春新書)

性的唯幻論序説 (文春新書)

 
THE BOOKS green 365人の本屋さんが中高生に心から推す「この一冊」

THE BOOKS green 365人の本屋さんが中高生に心から推す「この一冊」

 

f:id:school_of_dog:20151105224448j:plain『THE BOOKS green』という、書店員が中高生に本を紹介する本で取り上げられていた。紹介者は東京都目黒区にある書店の店員さん。誘い文句は「さあ、考えの幅を広げに行きましょう」である。なるほど、確かに考えの幅は広がった。中高生に勧められるかどうかは別として。

 人類という動物として生きる上でも、人間という知的生命体として人生を作っていく上でも、「性」の問題はめちゃくちゃ大きい。その「性」に対する見方・考え方が揺さぶられる本である。ただ、ここに書かれているようなものの見方・考え方を獲得するのがイイことだとは言い切れない。面白いから、楽しいから読むんだぜ、くらいの気持ちがよさそう。

 

 特に最初の2章くらいが非常に楽しい。仕事から帰ってきた後、19時からかるーい気持ちでこの本を開いた。そしたら夕飯食べるのも忘れて、気付けば22時になっていたくらいだから。こんなに熱中したのは久しぶりだ。

 私は、こういうブログって既読の方が検索をかけてたどり着いてくださるのが90%以上だと思っているので、改めてあらすじは書かない。けど、自分の頭の整理のためにちょっとだけ……。未読の方がいらっしゃったら、下に述べる触りの部分で、この本の面白さを掴んでみてほしい。

 

 人間は二足歩行をし、大きな頭脳を持っている。しかし、それは他の哺乳類に比べれば奇形的とも言えるような進化をもたらした。奇形的進化は性にも影響を及ぼす。発情期が来ればオスもメスも勝手に戦闘準備万端! ……とは行かぬのだ。

 身も蓋もないことを言えば、性交のためにはメスの状態は特段問題にならない。条件としては、オスの性器がエレクチオンすることだけが求められる。しかし、発情期という構造によって勝手にそうなるわけではない以上、人類が存続するためには後付けで、ゴリ押しでリビドーをかき集める仕組みが必要になってくるのだ。どうしてエレクチオンしないのよーって言っても、人類のオスは発情期に支えられているわけではないので仕方がない。この意味で、人間は本能が壊れた動物である。

 このような大前提の上に立つと、見晴らしがいい。著者である岸田教授は、豊富な、時にはお叱りを受けそうな例を引っ張りながらあれこれを考察する。「ニーソックスに興奮するフェチズム」も「かのマックス・ウェーバーすら見落とした資本主義の発展要因」も「男優位の性差別」も「キリスト教圏文化と日本文化の違い」も、不思議と(?)よく見えてくる。

 特に、「女はストリップを見たとき、女の裸自体に興奮するのではなく、女の裸を見て興奮するであろう男を想像して興奮する」というねじれ構造になっている女の性欲について、胎内回帰願望とフロイドのリビドーを使って説明するところはもはや色々と通りこして感動。よくこんなことを考えられるなぁって。

 

 『性的唯幻論序説』に書かれていることが科学的に正しいかと言われれば、怪しい部分はあるのだろう。だけど、大学生の時に異常に面白い講義を聞き、ノートにメモを書きなぐっていたら1コマで10ページも書いていた……みたいな気分を思い出させてくれる本だった。あるいは、ライトノベル主人公のモノローグにも使えそうな?

 ある程度の年齢になっていないと本書の内容は劇薬になりかねない。ここに書かれている内容を信じすぎると、少年少女たちがこれから純粋に性生活をしていく妨げになるのだ。ようやく好きな人と付き合いそういう場面になったとしても「今は幻想をすり合わせているだけなんだ」とか「オレはここにフェチを見出して、なんとか人類の存続のためにエレクチオンしないといけないんだ」とか、頭をよぎってしまうだろう。やだなぁそんなこと考えている10代……。

 自分とは一線を引き、科学書ではなく、哲学書やエッセイのつもりで向かい合ったらいいのかもしれない。少なくとも、この教授が考えることは自然に生活していたら思いつくはずがない。それを知れる点、本の楽しさが詰まっている本であるといえる。

漠然とした勉強法に理論という土台を与える/市川伸一『勉強法の科学-心理学から学習を探る』

勉強法の科学?心理学から学習を探る (岩波科学ライブラリー)

勉強法の科学?心理学から学習を探る (岩波科学ライブラリー)

 

 f:id:school_of_dog:20151105224439j:plain定期考査前なんかに、生徒にドヤ顔で語れそうな勉強法の科学だぞ。

 

 莫大な量の暗記を要する大学入試や教員採用試験を通過してきた先生たちなら、本書に出てくるような勉強法は漠然と頭の中にあることだろう。だけど、この本はきっと、読者が知らない画期的な勉強法を伝授するというようなことを目的としているのではない。だから、「この本に書かれていることなんて、みんな知ってるよ。こんなの常識でしょ?」という批判は的外れになる。

 大事なのは、その漠然とした勉強法に心理学というバックボーンを与え、確信を持たせてくれるところだ。ボクも読んでいて、「なるほど! そういうことだったのか!」と唸るところがたくさんあった。

 

 本書で学んだことは、学習指導(もとい、ボクのドヤりタイム)にも役に立つ。

 例えば。

 「丸暗記って辛いです。しかも頑張って勉強しても忘れちゃうし。どうやって勉強すればいいんですか?」

 と、定期考査前に生徒たちが嘆いていたとする。

 そこで、

 

 112358132134

 

 と板書してみる。

 

 「さぁ、今からこの数字を覚えてみよう。30秒後に聞くよ」というと、「えー」「めんどくせぇ」「ムリだって」みたいな反応が返ってくるだろうな。そして30秒後、ブツブツとつぶやいてなんとか答えられる子が半分くらい? だけど、その場は「すごいね、よく覚えられたね!」なんて言いつつ5分後に不意を突いて再び聞けば、答えられる子は1人もいまい。

 

 そこでボクはこう言うのだ。

 確かに、この数字を真正面から暗記するのは大変だよね。だけど、実は10秒足らずですべて覚えるウラワザがあるんだぜ。

 そのウラワザとは、12コの数字そのものを覚えるのではなく、1コの法則を理解することだ!

 並んでいる2つの数字を足すと、その右隣りの数字になるという法則に注目しよう(いわゆる、フィボナッチ数列というやつ)。

 この法則を見つけ出せれば、この数字を再現するのはたやすいよね。勉強って、真正面から丸暗記するだけじゃないんだよ。色んな工夫のしようがあるんだ。

 この説明で、目からウロコが落ちる生徒はいっぱいいるんじゃないかな。先生も鼻高々! やったぜ!

 

 こーんなことを自信を持って話せるのは、著者である市川先生の膨大な実験に裏付けされた理論が味方になってくれているからだ。独りよがりではないからだ。

 

 本書で特に面白かったのは、第1章(どうすればよく覚えられるか)と第4章(やる気の出るとき、出ないとき)。

 第1章は、短期記憶を長期記憶として定着させるには基本的にリハーサル(繰り返すこと)が有効だけど、それだけが能じゃないと説く。最後には社会科での効果的な学習方法が示される。ここで示させるような知識を関連付けるような学習はとても大切だとボクも思った。

 ただし、先ほどのフィボナッチ数列の例を出したところで「それは分かるけど、具体的に先生の教科では何をどう工夫すればイイんですか?」と聞かれるのがオチなので、そこから自分で考えないといけない。

 第4章は、教員採用試験のために昔(それこそリハーサルによるゴリ押しで)覚えた教育心理学って、実は結構大切なんだなってことに気づかせてくれるものだった。いや、ある程度教師として仕事したから見えてきたのかなぁ。大学生の時は、教育心理学なんて退屈でしかなかったんだけど……。

 

 既存の答えの丸暗記に終始しない探究的な学習が目指される時代だ。とはいっても、どうしても「覚える」ことが必要な部分は存在し続ける。どうせやらないといけないのなら、意味がある方法で、効率的にやらせてあげたいものだ、と思った。

 絶対の解決策、「こう言えば勉強できない子も心理学のチカラで救えるよ!」なんてものが示されるわけではない。そこから先は、自分で考えていくしかない。だけど、勉強ギライの子どもに向き合う言葉がちょっとだけ増える。そんな本だった。

織りなす布はいつか誰かを……/小さな旅 時重ね 水輝き~滋賀県奥びわ湖~

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www.nhk-ondemand.jp

f:id:school_of_dog:20151105224445j:plain「縦の糸はあなた 横の糸は私♪」

 言わずとしれた超名曲、中島みゆきさんの「糸」。今、この曲を聞きながら書いている。 

 なんで突然「糸」なのかというと、今回珍しく「小さな旅」のBGMにこの曲が使われていたから。「糸」が使われるのが珍しいというよりかは、歌謡曲が使われるのが珍しいということ。それだけ、今回の主題が「糸」であるということが強調されている。

 

 長浜市の大音(おおと)集落では、昔から糸を紡いできた。「紡ぐ」とは、繭などから繊維を集めて束ね、糸にすること。しかし、大音で紡がれる糸は洋服に使われるわけではない。楽器糸になるのだ。

 キレイな湧き水を80度に熱し、そこに繭を入れて糸を紡ぎ出す。小さい泡が出るくらいの温度が適当なんだというのは、60歳の女性。こちらのサイトによれば、5軒あった撚糸業者も今では1軒だけになったとある。それが、この女性が働くところなのだろう。それにしても、「小さい泡が出るくらい」というのは分かりやすい。パスタを茹でたりなんかするときにも、小さい泡が出てきたら「あ、もうすぐ沸騰するな」って分かる。歴史の授業でも扱われるけど、やっぱりかなり熱いもんなんだなぁ。

 繭から引っ張り出した20本の繊維を1本に撚る。これをさらに100本束ねると楽器糸になるのだそう。ということは、ひとつの楽器糸を紡ぐためには20✕100で2,000本の繊維を撚らないといけない計算になる。うーむ。こうしてできた糸が音楽を奏でるのだと考えると、音の背景に何かを感じざるを得ない。

 

 それから、最初に出てくる西野水道。江戸時代の男たちが紡いだ糸が布を作り、今の長浜市西野に住む人々を守っている。「土地がここまで持ったのはご先祖のおかげ」という言葉に重みを感じる。

 琵琶湖で漁をする夫婦。「逢うべき糸に出逢えることを人は仕合せといいます」の世界だな。おばあちゃんの「あの人いるからできてるだけや」という言葉には温かみがある。

「最大幸福」ではなく「十分幸福」/小さな旅 山抱かれ 心満たす~石川県 白山~

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f:id:school_of_dog:20151105224445j:plain360度、見渡す限り田んぼしかないようなところに住んでいた時期、都会に住んでいる友人たちから「なんでそんな不便なところに住み続けているの? 遊ぶところも、美味しいもの食べるところもあんまりないじゃん!」と言われたことが何度かある。「そこに住み続けるのは、もはや修行だよね」とも。

 私は「都会に住むのが絶対にいい」とも「田舎に住むのが絶対にいい」とも思っていないけど、確かに田舎に住んでいると不便なことってたくさんあるわよね。最大の不便、それは計画的な買い物をしておかないと詰んでしまうことかしらん。まぁ、私の場合は仕事ばっかりの日々だったし、休みの日だってインドアだし、ご飯は自分で作りたいし、そういう根暗的生活をしていたから、遊ぶ場所なんてなくったってまったく問題なかったんですけど! それから、今はAmazonっていう便利なものもあるしね。

 その後都会に移り住んで感じたのは、「空が狭い!」「山が見えない!」。一方で手に入れたものもたくさんあったんだけど、なんだか寂しかったなぁ。

 

 今回の小さな旅では、「なんでそんな不便なところに住み続けているの?」という都会人の問いに対して、「便利って求めだしたらキリがなくないかい? 今ある環境、今あるもので満足することができるようになればいいんじゃないかい?」と答えているように思えた。

 「最大多数の最大幸福」は、社会科学が求めるひとつのゴールのように扱われてきた。だけど、「最大幸福」ってどこなのよ。最も大きいと書いて最大。だけど、最も大きい幸福を叶えたら、さらに大きな幸福が欲しくなる。あれ、最もってどういう意味だっけ、と。それに対して、最低限生きることができれば満足することができるという「十分幸福」(※今作った言葉)の世界を垣間見ることができる。

 

 出作り小屋のおじいちゃん。どう見たって不便そうな場所に住んでいる。じゃあ、広大な耕作地が得られる平地に引っ越せばいいじゃないかという意見があるかもしれないけど、そうではないのだろう。定年退職をしてから「夢にまで見た」山に帰ってきた。

 クズ繭のみを使って作る絹織物。ひとつの繭に2匹が入ってしまっていると糸が絡まってしまうが、そこから絹を紡ぎ出す。ちょっと使えなくなったからと言ってすぐに捨ててしまっていることを若干恥じる。

 

 そんな生活が都会生活に勝っていると思っているわけではない。私は彼らのような生活に慣れることはできないだろう。だけど、まさに「足るを知る」を実践する彼らの姿は、忘れていた何かを思い起こさせてくれる……かもしれない。